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zoom RSS 向島墨堤多話−13(終)  牛 梅 さくら 枕橋

<<   作成日時 : 2013/03/12 00:00   >>

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梅は見頃、桜も待ち遠しい季節ですね。前回に続き旧・向島小梅町から新小梅町にかけて、今回は言問橋南側の隅田公園をご案内いたします。
 (時々「さくら」に飛びます)

牛嶋神社は、以前は向島須崎町、長命寺や弘福寺のそばにありました。
現在の水戸徳川邸跡に移ったのは昭和の初めです。

その境内、撫牛近くに建つ説明板「江戸・東京の農業 浮島の牛牧」
この付近は、古代から牛が草を食んでいた牧場だったそうです。
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牛と言えば、向島(むこうじま)の地、ならぬ、麹町(こうじまち)に牧場を開かせた榎本武揚と松本良順。

榎本武揚の北辰社牧場については、以前の記事
  農大歴代之地 その前に「北辰社牧場跡」へ
をご覧下さい。

一方の陸軍軍医総監も務めた松本良順(のち改め順)は、牛乳の飲用を広めたことで知られます。

良順の義理の伯父(=伯母の夫。叔父との記載もあり)にあたる阪川當晴は、明治初めに旧幕府の御厩(雉子橋外)から牛乳を買い入れて一般に販売します。さらに、明治4年、和牛洋牛各1頭を求め、牛乳搾乳所を赤坂の宅に開きます。四谷右京町を経て、明治5(1872)年7月、麹町五番町17番地、現在の英国大使館西側付近(詳細な場所は次記事)に移り、搾乳業をはじめます。當晴が開業にあたって指導を乞うた日本の市乳の開祖・前田留吉は、明治14年に北辰社牧場を譲り受けた前田喜代松の叔父にあたります。

開業当時は、良順が早稲田に開いた「蘭疇医院」や陸軍病院等に納入していました。

明治17年1月、當晴は病没しますが、妻キクが維持。明治27年頃より陸軍衛戌病院や順天堂病院の御用を務めます。

明治34年、代々幡村幡ヶ谷(現渋谷区。京王線の南、中野通りの東あたりか)に敷地を買い入れ、麹町及び四谷区霞ヶ岡町14番地の飼牛場を廃して移転。品川八ツ山下、大正11年には調布の深大寺にも牧場を持ちます。そして昭和3年7月、幡ヶ谷の牧場を2万余坪の千歳村烏山(現世田谷区上祖師谷二丁目2番)へと移転します。その後の状況は不明ですが、跡地が「パークホームズ千歳烏山 ガーデンズコート」になっています。

                                  
ところで、榎本武揚の義理の叔父(妻・多津の母・林つるの弟)にあたる松本良順は、佐倉藩医となる佐藤泰然の次男として生まれました。順は順天堂の順。ただし幼名・佐藤順之助くんが生まれた天保3(1832)年6月16日(旧暦。新暦では7月13日) 時点の父・泰然は、まだ蘭方医目指して勉学中。薬研堀に「和田塾」を開いたのは天保9年、「佐倉順天堂」を開設したのは天保14年です。

実は、明治3年5月18日設立した「阪川牛乳店」は、阪川當晴が佐藤一族である松本良順、赤松則良(多津の妹・貞の夫)、佐藤尚中(山口舜海。泰然の養子)、林洞海(多津の父)らと共に結社しておりました。しかし結社諸氏の多くは官職に就き、阪川が独り維持する形となったようです。その後、大正8(1919)年6月に株式会社となった際、社長には赤松 範一(則良の長男)、また監査役には、榎本尚方(武揚の三男)と林若吉(若樹。多津の兄・林研海の子)が就いていました。

 大日本牛乳史 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
    →コマ番号133 に 阪川牛乳店の牛乳宣伝ビラ
      コマ番号274 に 阪川牛乳店の乳業者名鑑

 文明開化の武士の商法?牛乳屋は明治のベンチャー (みなと雑学BOX)
    →明治18年の阪川牛乳舗の図

 視線の先のオランダから持ち帰った木木の縁  →林兄妹に関する記載


松本良順は、牛乳の他に海水浴も奨励しました。明治40(1907)年3月12日に亡くなるまで、海水浴場を開設した大磯で晩年を過ごしています。妙大寺に建つ墓碑の「従三位勲一等男爵松本順」の文字は実の弟である林董(泰然の五男、後に林洞海の養子)が書いています。
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  佐倉順天堂に建つ松本良順(右)、林董兄弟のレリーフ(2004年11月撮影)

 「大磯の蘭疇−松本順と大磯海水浴場」 (大磯町郷土資料館)

 東京牛乳物語 −和田牧場の明治大正昭和 (黒川鍾信、新潮社、1998)
    この本の「あとがき」の日付は松本良順の命日と同じ3月12日です。
    和田牧場の二代目該輔(婿養子)の姉「はつ」は前田喜代松の妻。

                                  
さて、2004年の大河ドラマ「新選組!」でもおなじみ良順さん。いずれ「八重の桜」にも登場するのではないかと。(八重の夫となる新島襄も療養先の大磯で亡くなっています)  良順が幕府の医学所三代目頭取として、負傷兵の治療にあたったのが台東区の称福寺であり、家族と仮住まいしていたのが今戸八幡(現、今戸神社)です。

 称福寺 台東区今戸にある浄土真宗本願寺派寺院 (猫の足あと)
  →こちらの地図(下端が桜橋)を見れば、榎本武揚旧居跡である「向島5-13」(地図右下の「向島五丁目体育館前」と書かれた信号の所から、右上に広がる一角)と今戸神社の本殿が同じ緯度にあり、また「向島5-13」と称福寺が隅田川の中心線=区境を挟んで、ほぼ対称の位置にあるのがわかりますね。
さらに称福寺の北側300メートルほどの所には、箱田良助改め榎本円兵衛武規ら、榎本本家の菩提寺であり、榎本武揚も明治5年の赦免後に謹慎生活を送った保元寺(橋場1-4-7)があります。

  向島墨堤多話−7 榎本武揚終焉の地
    →こちらの記事の最後から2番目の写真が「向島五丁目体育館前」から
     「向島5-13」を写した図 (通り西側の体育館は2010年閉鎖、解体済み)

  木造扁額「牛嶋学校」 (墨田区登録文化財)
    →前記事 でも、すみだ郷土文化資料館の所蔵品として紹介しました
        が、榎本武揚筆の「牛」の字として再掲します。


                               

小梅町に目を戻します。
 (ちなみに榎本武揚の長男・武憲の妻の名前は梅子(旧姓・黒田)です)

水戸徳川家の下屋敷跡である隅田公園です。
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明治8(1875)年4月4日、明治天皇は東京遷都後初めての花宴をここ小梅邸で開きました。
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この時、吉野の八重桜の花びらの塩漬けを埋め込んだあんぱんが、お茶菓子として献上されました。ご存じ銀座木村屋の桜あんぱんです。

  木村屋のあゆみ (銀座木村屋總本店)



墨堤の桜(の碑)は時代と共に南下してきました。改めて振り返りますと、
木母寺(ここも「梅」ですね)には文政12(1829)年建立の「題隅田堤桜花」碑、
長命寺そばには明治20(1887)年建立の「墨堤植桜之碑」(右)が建ちます。

そして墨田区が平成16年から19(2007)年にかけて実施した「墨堤の桜保全・創出事業」に合わせ、「平成植桜の碑」が隅田公園に建ちました。
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庭園沿いの墨堤通りを南下し、東武線をくぐれば、いよいよ終点、枕橋です。
 (左)枕橋から北十 間川の河口=隅田川方向を望む
 (右)橋の東南側(渡った先の左手)に建つ説明碑(2009年9月撮影)
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道路名称上の「墨堤通り」は枕橋から先も続きますが、もはや「堤」ではありません。言問橋から続く「言問通り」が根津、本郷まで延びているようなものです。

この先、右手の墨田区役所のロビー、展示コーナー、 は休日も解放されています。区役所前からは、墨田区内循環バス南部ルート(押上、錦糸町、両国方面行き)に乗車できます。
  墨田区内循環バス(紹介、ルート図、時刻表)



さて、今回で「向島墨堤多話−」シリーズは終わります。
が、書き足りないことがあるので、向島関係と麹町案内は続くとか・・・
次回(向島 志”満ん草餅 麹町)もよろしく。



三ツ目通り牛島神社前交差点から望むスカイツリー
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カメラを構えていたら人力車が立ちはだかりましたので、
そのまま被写体にしてしまいました。



「向島墨堤多話−」シリーズの写真は、特に注記のない限り
  2012年6月に撮影したものです
  マークの写真は2010年5月撮影




東京牛乳物語―和田牧場の明治・大正・昭和
新潮社
黒川 鍾信


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